韓国映画界の巨星イ・スンジェ。
70年にわたり、韓国映画界をけん引しつづけ、最高年齢の現役として第一線に立ち続けた俳優が、2025年11月25日に永眠いたしました。
いまだ、悲しみは深く、韓国芸能界ならず、私自身、実の父を亡くしたと同じ気持ちです。
だからこそ、イ・スンジェが現在の我々、残された者に伝えたかった言葉と精神をきちんと届けたいと思います。
イ スンジェの最後を看取った長男イ ジョンヒョクの言葉を掲載してます。
どうぞ、最後までお読みください。
※各韓国メディアの報道と情報を直接届けさせていただきました。
※意訳ではありますが、原文・言語に忠実に翻訳しました。
※また、本文中には「敬称」を省略しています。
2025年11月25日、午前8時ころ、韓国メディアは一斉に、「イスンジェ死去」の報道を流しました。
イスンジェ訃報の報道から
報道は、故人の葬儀がソウルの阿山病院葬儀場30号室で行われる予定であること、喪主は長男イジョンヒョク氏か、妻のチェヒジョン氏ではないか、ということでした。
韓国のBiz Checkによると「突然の訃報は何故?はっきりとした死因は未公開」書かれれています。
朝鮮日報では「血液の癌によっての悪化」と書かれてあって、慌てて読んでみました。
だが、イスンジェの親友であるアンソンギの健康悪化と死因が書かれた記事で、二人の功績を称える内容でした。
「長年の持病の悪化による」と言う記事もありましたが、その持病が何なのかは書かれていません。
そのため、生命の危機を及ぼし病気によって、命をおとされたのでないと推測しました。
ナビコントップだけが、「11月25日未明、肺炎と老衰で亡くなりました」と書かれています。
ビスチェックの記事内容と合わせると、こうです。
慢性的な体力の衰え、脚の筋肉の弱さ、歩行困難、急激な体重減少で、
弱っている体に肺炎が引き金になったと考えられます。
イスンジェに医師が「休養の要請」をした2024年
演劇「ゴドーを待ちながらを待ちながら」の公演がストップ
2024年10月です。
2024年9月に開幕したこの作品でイスンジェは主人公エスターを演じていた。
公演は12月までの予定でした。
中央日報によると、イスンジェは舞台の立つ意欲を表したが、医師の判断で、休養をすることになったと報道してます。
制作会社は「公演を期待していた観客の皆さんに心からお詫びする」とし「先生の早期快癒を祈り、今後も良い公演を続けられるよう出演陣の健康と安全に最善の努力を尽くしていく」と伝えた。
イスンジェは「観客との約束を守る」と医師が完全ドクターストップとするまで、中止することを拒みつづけました。
同時に12日にはソウルで予定をしていた講演。
俳優希望の子供や青少年に向けての演技哲学「700年演技哲学」も、期限を定めない延期(無期限)となりました。
韓国文化芸術教育振興院は「イ・スンジェが健康を回復してから行う」表明。
2024年頃から急激に容態が悪くなったのがわかります。
イスンジェの「報道は伏せていた」
エクスポートニュースの記者によりと、
今年の、春ごろから健康に関する報道がたびたびあって、その内容は「足腰が弱り、現在リハビリ中であり、回復の途中である」という内容だったため、関係者もあまり心配しすぎないことにしていたようだ、とされていました。
記者と電話で話したチョンボソクによれば、
…でも実際は変わらず、「回復ができない状態だった」という。
回復を望む立場だから、よくない噂がひろまらないようにしていた、とのことでした。
3週週前にも家族の許可をもらい、病院にいったが、挨拶をするとイスンジェはちゃん返事をかえしてくれたと言ってます。
身体はとても良くなかったイスンジェ
韓国報道関係はありのままを発表することは、世間の心配になるから、どうしてもできなかったのと、
何よりも、イスンジェ本人が、復帰する意思があることを尊重し、敬意をもって伏せていたと思います。
韓国報道機関さへも敬意をおしまない、そんな方だったのです。
イスンジェの妻チェヒジョンが準備をしていた布地
MKスポーツニュースは、
映画監督パクソニョルが、イスンジェの妻チェ・ヒジョンが2024年頃より、夫の最後の旅路にふさわしい衣服を準備していたと語っています。
その布地は13種類であり、最上の布地であること、妻であるチェヒジョンが手縫いで準備したと話し、これらは、イスンジェと話し合って決めたようです。
イスンジェも妻チェヒジョンも、予期せぬことを予期していたのです
納棺式(のうかんしき)として準備した寿衣(すい)はマンゴン(網状の冠)ポッコン(帽子)チョッキ、ズボンと上衣、ドゥルマギ(外套)、手甲(てこう)ソナン(小嚢)
映画監督パクソニョルは
「イスンジェが最高の布を着て天国に行きたいという気持ちを感じました」と綴りました。
イスンジェと家族は1年ほど前から、覚悟をしていたのですね
イスンジェは舞台への意欲を燃やし続け
2024年、好演の最中に倒れ、緊急外来を受けたあたりでしょうか、イスンジェは、4月のPD賞をはじめ、他の授賞式にもたびたび欠席するようになりました。
しかし、イスンジェは気力を失わず、リハビリと治療の専念し、もう一度舞台に立つという意欲を失っていませんでした。
中央日報によると、昨年の10月以降から視力のほとんどを失っていたとされています。
事務所COイスンヒは
「彼は私かマネージャーに(台本)を声に出して読んでもらえたら暗記すると言っていました」と付け加え、「それが最も胸が痛む部分でした」と付け加えました。 [출처:중앙일보]
「健康になられたら何かやりたいことはおありですか?」と尋ねたそうです
これに対し、イ・スンジェは
「僕がやりたいのは仕事だけだ」
「お身体がよくなればできますのから、安心ください」と話すと
イスンジェはこくんと頷いたのでした。
イスンジェは目が見えなくも、台本を読んでくれたら覚えるから読んでくれと頼み、復帰への希望を託していました。
と書かれ、「台本を読んでくれ」と言われるのがとても辛かったと明かしました。
イスンジェ息子に伝えた「最期の言葉」
これまで、マスコミに現れることなかった、息子イ・ジョンヒョク氏が初めて言葉にしました。
(息子イ・ジョンヒョクが伝える故イ・スンジェの最後の瞬間 타크 스 토 리動画より翻訳)
…
危篤の電話がはいったのは11月25日 午前3時。
覚悟を決め、急いで車を走らせ病院に向かうと、ひとまわりも小さくなった、父イスンジェが横たわっている。
「アボジ(父さん)僕です。僕がきました」と、手を握りしめるとその手は大変冷たかったと。
「息子よ・・」
そう言って、酸素マスクを外したのです。
医師は外すのを制しようとしたが、イジョンヒョクは父が何か伝えたいことがあるはずだと、外したままにしてもらい、イスンジェのしたいままにしたのです。
さっきまで弱々しかった手に力がぐっと、入り、息子をしかり見つめます。
一瞬ではあったが、あの、カメラの前の立つ目のように煌めいた。
「泣いてはいけない・・ジョンヒョギ・・泣いてはいけない」
「父はそんな方でした。
死の瞬間まで俳優であり、私は観客だった」と。
父イスンジェは言葉を続けます。
「俳優は道化師だ・・人々を笑わせることだ」
そう、息子に語りました。
イジョンヒョクは思いだします。
「どんな時も感情を注ぎこまないといけない。」と言っていたことを。
70歳を過ぎて演じた「おもいっきりハイキック」の役の際、周囲のスタッフが役に反対したことを。変人おじいさんの役をすると、今までの積み上げたキャリアとイメージが台無しになると。
でも、イスンジェは
「観客を楽しませることが私の使命だ」
「観客を楽しませることができるなら、私のイメージの何が大事なのだ」
と、言い切り役に挑んだことを。
「父は自分の死さえも、ひとつの場面として捉えていた」と言いました。
ジョンヒョクは込み上げる感情を堪え「泣きませんよ。
アボジの小言を聞いてないじゃない」と、
冗談を返すと、イスンジェは微笑んだという。
そして、机の上に置いてあった台本
「ゴドーを待ちながら」をそっと父の胸に置きました。
イスンジェは胸に置かれた台本を、この世で一番欲しかったものをもらった子供のように抱きしめたと言います。
91歳の年齢でも、
死を目の前にしても舞台に上がることを夢見ていた現役俳優だった。
最期の瞬間もそうだったと。
そして、イスンジェは口元に笑みを浮かべ静かな声で息子ジョンヒョクに言います。
「私の人生、実に愉快だったよ・・
ありがとう・・私の息子でいてくれたこと・・
幸せだった・・」
言葉はここで途切れたそうです。
一瞬天を見つめ・・そして
「ゆっくりとゆっくりと瞼を閉じました。
なんの後悔も、未練もない完璧な退場だった」
その姿はまるで「イ・サン」の英祖が孫のサンに抱かれるよう、「ホ・ジュン」のイギュテが、ホジュンに体を差出し、預けたようだった。
イスンジェが息を引き取りと、その場所に、今まで、父イスンジェが演じた人物が部屋中に満ちていたといいます。
英祖・・イギュテ・・ヤドンスンジェ・・
供に一緒に見送っているようだったと言っています。
「91歳のドラマはハッピーエンドで幕を閉じたのだ」
最後を見届けた息子イ・ジョンヒョクの言葉です。

息子にとってイスンジェとは
世間でいう「カリスマ」「大御所」俳優の前に、玄関に入ると、「疲れた顔」で帰宅し、子供と家族を食べさせるため働く親父だった。
饅頭屋をやっている頃、昼間は小麦の粉で服が真っ白になっている姿で働き、夜は同じ手で台本を読み返す姿を今でも覚えている
・・父は忙しく顔をみることができないことが多かったけど、テレビを見ると父が映っているので寂しくなかった。と、
これからはTVでなく何時までも心に生き続けている。
「91年の完璧は芸術。
貴方の息子で幸せだった。
息子であることを誇りに思う」とそう語りました。
イスンジェの息子であるイジョンヒョクが、葬儀でも涙をみせなかったのは、
それが父との約束であり、イスンジェが望む「ハッピーエンディング」を完成させたかったからでした。
イスンジェが現在の俳優に遺した「演技哲学」
2024年「ユキズのオンザブロック」で放送された言葉をまとめました。
「俳優はその国の言語の代弁者だ」
「별(ピョル)」「눈(ヌーン)」「말(マル)」「거 리(コリ)」
と、発音ごとに意味が変わることを模範で見せてくださいました。
言語は博士だろうが無学だろうが、田舎の住むものだろうが、ソウルのカンナンに住む人でも皆、同じようにわかるようでないといけない」
「俳優は演技で評価されないといけない。人気や他の条件で評価されるものではない」
また、視聴者や観客を最も大切に考えて、このような言葉もおっしゃってます。
「スターだと言って、お客の前を通りすがり、握手をしない人もいる。
私はそれは違うと思う。
握手を求める人には一人一人に感謝をするのだ。
その人がいないと、お前の存在はいらない。
必要ないではないか」
突き刺さるような最もなお言葉です
人気より演技。お客様がいるから「存在している」という「俳優の基本姿勢」を
教えてくださいました。
イスンジェが育てたイソジンや後輩俳優たちの言葉
葬儀は教えを受けた俳優たちがが次々と弔辞を述べました。
ソウル総合ニュースには、
俳優:キム・ヨンチョル
俳優:ハジウォン
告別式の司会を務めた俳優の:チョン・ボソク
ーソウル聯合ニュース参照意訳ー
「イ・サン」共演俳優:イソジンはナレーションで言葉を伝えた。
どの方もみな、韓国芸能界のトップであるベテラン俳優です。
イスンジェの遺影の前では、まるで小さな子供のように肩を震わせ、人目はばからず泣いていました。
チョンボソクが話したように、韓国エンターテインメント業界で、イスンジェの恩恵、影響を受けなかった人はいないでしょう。
イスンジェは映画界の大御所であっても後輩たちへの温かな指導とまなざしを絶えず注ぎました。
北極星のように後輩たちの道しるべとし照らしたのです。
俳優イスンジェが守り続けた自尊心
「俳優の記憶力は自尊心の問題だ」
「記憶力回復ため努力をするのだ、だからアメリカ大統領の名前を覚えたり、演技は簡単ではないよ。
いまだに、これはどうすればいいか・・そんなことあるんですよ。」
「芸術とは限界がないから。完成がない。その時代の評価があるのみ。」
「完成がないから、絶え間なく挑戦していくのだよ、どれほど、心が躍ることか」
「年齢に限りがあるから、やりたい作品は多い。やってみたい、挑戦したいのが多いんだよ」
印象的だったのは「TBC開局メンバー6人」の話しになったときです。
イナクフン、キムドンウォン、キムソンウク、キムスンチョル、オヒョンギョン、そして、私イスンジェ。
自分一人だけが残って、みな天国に召されたが、向こうにいったらまた語り会えると笑ってました。
「私もすぐ行くから、天国で会えるから、また逢おう、アンニョン」
とオヒョンギョンのお葬式で手をふるように言葉を交わした姿が印象的でした。
願わくば舞台の上で命を尽きたい
「人の生死はわかなぬものだから、努力はするが、努力してなんとかなるものでもないから」
「条件が許されるなら・・一番幸せな条件、公演をしている間死ぬことだ。
舞台で倒れて死ぬことが最も幸せな死にかただ。至福の瞬間だ」
「一心不乱に走ってきた。それが楽しかったし、やりがいだったよ」
と、「ユキズのオンザブロック」の収録で語ってます
死への恐れは微塵もなく、最後まで、舞台に立ちたい、そう人生も終わりたいと幾度も言葉にこめてます。
「俳優はセリフが覚えられなくなったらおしまい」と、ばかりに、毎朝新聞を朗読し、台本を抱えて暗記する習慣を70年続けてらした方でした。
劇場やスタジオ入りも人より早く到着し、セリフの読み合わせをし、本番のNGをけして出さない方でした。
頭が下がる思いです。
イスンジェが我々視聴者に伝えたかった言葉
MCユキズが聞きます。
「先生人生とはなんですか?」
「我々が生まれた条件はそれぞれ違う。富裕層の家の生まれる場合もあれば、
そうでなく生まれる場合もある。
でも自分がこの世に生まれたのは何か意味があるからだ」
「生きる意味を探し自分の道を開拓すること、他人がどうだとか卑屈になるな。
自分はなんでもできる。
確信をもって前進せよ。
そうすれば叶う」
そう、言葉にされました。
2024年「KBS演技大賞」が「犬の声」最後の姿
イスンジェはげ現役最高齢でも受賞でした。
「長い間生きててこんないい事もある」と感無量の笑顔で舞台に立たれました。
その姿と、スピーチに会場中が涙しました。
何故かわかりません。私も聞いてるだけで、胸がいっぱいになり涙がこみあげました。
参加した俳優の多くが、同じようにハンカチで目をぬぐっていました。
イスンジェは視聴者に向かっていいます。
「視聴者の皆様には生涯多くの御恩を受けました。感謝します。
夜遅くまで、TVの前で見てくださった視聴者の皆様、
私の生涯にわたり、お世話になり、いつも助けていただきました。
お世話になりました。」
と、挨拶をし深々と一礼されたのです。
これが、公式な場所での事実上最後の姿となりました。
俳優として生き、俳優として去った91歳の生涯でした。
まとめ
私は11月16日、イスンジェの誕生日にブログのタイトル年齢を「90歳」から「91歳」に更新しました。
最高齢の現役俳優の誕生日を私なりに祝いながら。
そのわずか1週間で、訃報が届いたのです。
・・・
私は、イスンジェが発する、韓国語のイントネーションが本当に好きでした。
長い人生を歩んだものしか、できない、発音、言語、ゆったりとした韻
年下にものに言う独特な言い回し、それらが懐かしく、温かく、日だまりに包まれるのです。
何時も聞いていたい、しがれた声と言葉でした。
その言葉でなさる、役柄。
絶対無二の演技力と重なった存在感に圧倒され続けました。
尊敬しております。
もう二度と現れない俳優です。
韓国人の家族であり、永遠の父でありハラボジ(祖父)です。
私には永遠の「心のアボジ(父)」です
どうぞ、安からにイスンジェアボジ。
忘れません。
文章が長くなりました。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
イスンジェ 若い頃から現在までの軌跡「イサン」「馬医」91歳名優の物語


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