チェサンテグンの史実【暴君のシェフ】モデル斉安大君とは?玉座明暗の舞台裏

ドラマ【暴君のシェフ】大君(チェサンテグン)は史実の斉安大君 (チェアンテグン)がモデルとされています。

斉安大君 (チェアンテグン)李琄(イ・ヒョン)(1466年 – 1525年)実在の人物です。

ドラマとは大きく異なります。

史実はどうなのでしょうか、

斉安大君の父は8代王の睿宗(イェジョン)です。

王の息子として生まれながら王になれなかった人物です。

9代王についたのは燕山君(ヨンサングン)父成宗・ソンジョン(乽山君・チャルサングン)でした。

その裏には何があったのでしょう。

史実を元にわかりやすく解説していきます。

登場人物が沢山でてくると複雑なため、押さえていく人物を紹介します。




燕山君(ヨンサングン)の家系図

燕山君(ヨンサングン)が見ると遠くなるので、父・成宗(ソンジョン)の立場から見てみます

祖父の世祖7代王
祖母:世祖の正室貞熹王后尹氏

世祖夫妻には二人の息子がいました。↓↓↓

長男の懿敬世子(ウィギョンセジャ)
次男の睿宗(イェジョン)(海陽大君)です。
長男の懿敬世子が結婚します    ↓↓↓
懿敬世子
懿敬世子妻が仁粋大妃(昭恵王后・粋嬪)

ここにも息子が二人います。    ↓↓↓

兄:月山大君と(ウォルサンテグン)成宗(乽山君・チャルサングン)です。

成宗(ソンジョン)が燕山君(ヨンサングン)の実父です。

では、斉安大君は誰の息子かと言うと、睿宗(イェジョン)の次男になります。

世祖7代王から目まぐるしく変わる王位と、世祖が亡きあと、王の座次々と変わります。



目まぐるしく変わる王の座

世祖が1468年に亡くなったあと、王位にあがったのは次男の海陽大君です。本来は兄である長男の懿敬世子が成るはずでした。しかし、世子は病気になり20歳という若さで急逝します。

※詳しくは筆者の

廃妃尹氏の史実を徹底解説!燕山君(ヨンサングンの母)の半生が衝撃『暴君のシェフ』に書かれてます。

海陽大君が8代王睿宗(イェジョン)です。

睿宗の最初の奥さんは章順王后は世祖時代からの権力者韓明澮(ハンミョンフェ)の娘です。

だが、難産によって産後5日で亡くなってしまうのです。

その後に継室:安順王后韓氏との間に生まれた子が斉安大君 (チェアンテグン)です。

王の息子として生まれ、育てば世子になる運命の子でした。

だが、災難が続きます。

元来、身体が弱く病気がちな父・睿宗(イェジョン)が、懿敬世子同様20歳という年齢で夭折してしまいます。

在位僅か、1年2カ月という短命政権でした。

次の王は誰がきめるのか、実権者は誰か

世祖の冶世、世祖が王になるため功績のあったものとは別に「勲旧派」(フグパ)と呼ばれる派閥が生まれたのです。

王権はずっと権力争いが絶えず、短い冶世の睿宗の時代にも派閥同士争っていたのです。

世祖の正室、貞熹王后尹氏と勲旧派はどちらが主導権を握るか瀬戸際でした。

王権を弱体化させるわけにはいかないと考えた、貞熹王后尹氏は、韓明澮と申叔舟らの力が必要です。

次の王選びはそんな背景があったのです。

選ばれたのは、成宗・ソンジョン(乽山君・チャルサングン)です。

貞熹王后の「鶴の一声」

「先代王(世祖)が、乽山君(成宗)はとても英明だと以前より褒めていた。

次の王は乽山君にせよ」

と命じたのです。

筋から外れた人選に家臣の中からも疑問も声があがります。

成宗・ソンジョン(乽山君・チャルサングン)は王ではなかった懿敬世子の息子。

しかも次男である。

王であった睿宗(イェジョン)の息子斉安大君が本来第1候補でないといけないのが儒教の選びかたです。

貞熹王后は「斉安大君はまだ幼い」と却下してしまうのです。

その時たしかに、2歳だったのです。

それなら・・成宗の兄の月山君はどうか?

3人の中で一番上ではないか?

当時、月山大君は14歳、成宗(ソンジョン)は12歳でした。

軍配は当然長子にいくはず・・

と思いますよね?

年齢からしても順番からしても不自然です。

臣下も何度もみなおすことを促します。

しかし、貞熹王后は「先代王の遺命」と言い、曲げませんでした。



成宗(ソンジョン)が王になった本当の理由

しかし、本当の理由はこうなのです。

2つあります。

1つ目は、

――成宗も正妻が韓明澮の娘であったことーーー

です。

貞熹王后は、世祖亡きあとの朝廷は韓明澮の力、派閥でないといけない、そうすることで、

朝廷の安定が保てると考えたのでした。

この考えはとてもわかりやすいですし、よくわかります。

政治的な事情がある。

何より基盤づくりが大事だと考えたのです。

・・

2つ目の理由はあまり、知られていません。

心情的なものでした。

その理由は、成宗(ソンジョン)の母・仁粋大妃への配慮でした。

貞熹王后にとっては、懿敬世子も睿宗もどちらもお腹を痛めて産んだ愛しい息子です。

20歳という若さであっけなく亡くなった悲しみも同じでした。

仁粋大妃は夫・懿敬世子が亡くなったあと、月山大君と成宗(ソンジョン)の幼い息子を育てながら、世祖と姑である自分たちに本当によく尽くしてくれてたので、感謝していたのです。

その感謝の心と、気丈夫は仁粋大妃なら「王の母」として役目を果たすだろうと知っていたのです。

成宗(ソンジョン)の母・仁粋大妃への信頼とも言えます。

こうして王座は、成宗(ソンジョン)が受け継ぐことになりました。

9代王 成宗(ソンジョン)が誕生します。



王権から外された斉安大君

後の不満にならないように、貞熹王后と仁粋大妃は二人の大君である月山大君と斉安大君には王族としての、最高の待遇と王に劣らない権限と、私物を渡しています。

また成宗にも二人には気を特に遣うように、教えています。

韓国の王宮の一つに「徳寿宮」というのがあります。

この徳寿宮は成宗(ソンジョン)が兄の月山大君のために建築した邸宅です。

文禄の役のとき、景福宮や昌徳宮や焼失した際は王宮として使っていました。

歴史的遺産として名高い徳寿宮は、王宮として建てたのではなく、あくまで私邸として建てたのでした。

斉安大君には「水津宮」と言う私邸を渡しました。

19世紀まで祭事を行う場所でして使用されていましたが、現在は残されていません。

「宮」という名があるので、相当は建物だったと想像します。

ソウルの中心地現在の市庁あたりにあったとされています。

大君たちにとっても「王座を狙ってる」という噂があったら速攻命とりになるこの時代です。

月山大君は絵画や歌、風流を楽しみ政治とは全く無関係に生活し過ごしたと伝わっています。

世間に評判が良い成宗(ソンジョン)の実兄・月山大君でしたが、

斉安大君は違っていました。

政治とは距離を置いたことは同じなのですが、行動、発言、等が荒れていて「変」だったのです。

そのため斉安大君は「愚かは者」つまり「馬鹿な大君」と呼ばれたのです。

次回はそんな斉安大君のその後の人生に迫ります

是非お楽しみください!

 

 

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