【暴君のシェフ】モデル・燕山君の祖母・インス大妃はどんな人?史実をわかりやすく

燕山君(ヨンサングン)を語るとき、祖母インス大妃(仁粋大王大妃)とも大きく関わってきます。

祖母インス大妃(仁粋大妃)はどんな人なのでしょうか、

朝鮮王朝史の中では女傑として登場します。

描かれるような「鉄の女」だったのでしょうか?

燕山君(ヨンサングン)の祖母、9代王成宗の母であるインス大妃。

朝鮮時代を生きた彼女の人生を初めての人にもわかりやすくお伝えします。

燕山君(ヨンサングン)からみた主な登場人物6人で説明します。

父:成宗(第9代王)乽山君(チャルサングン)
祖父:懿敬世子(ウィギョンセジャ)(桃源君 ・徳宗)
祖母:仁粋大妃(昭恵王后・粋嬪)
叔父:(成宗の兄)月山大君
 曾祖父:世祖(第7代王)
 曾祖母: 世祖の正室 貞熹王后尹氏

※呼び方は「インス大妃」と統一します



インス大妃の家柄と王宮に入るまで

父は西原府院君:韓確(1403~1456)の一番末の娘として生まれました。

本貫:清州 韓氏

高麗時代に待中をしていた直系の家系です

父の叔母が明の宣宗の側室になっています。

明の皇族とは親密な間柄で、外交で力を発揮する家柄でした。

姉も第4代王 世宗の嫡男と結婚しています

その縁もあってか、世宗の2番目の息子である、首陽大君の長男 桃源君(懿敬世子)と結婚します。

結婚当時、舅の世祖はまだ王になってはおらず、その後、世祖が7代王になったとき

夫が世子となり、彼女の称号も粋嬪(スビン)となったのです。

家柄同士の結婚ではありましたが、夫、懿敬世子は学問を重んじる静かな人柄で、優しく、夫婦生活は満ち足りて幸せでした。

子供にも恵まれ2男1女をもうけます。

ところが、夫 懿敬世子が、突然20歳の若さで病死してしまいます。

インス大妃は21歳で寡婦となりました。

長男の月山大君、長女の明淑公主、とりわけ、次男 乽山君(成宗)は夫がなくなった後に生まれています。

幼い子供を抱えて、どうしていいかわからず、前が見えませんでした。



インス大妃「暴嬪」と呼ばれる

良い嫁・良い母・良い婦女

良い嫁

インス大妃を知ってみると一番感動するのが「孝行」です。

彼女は亡き夫の親に尽くします。

早朝~夕と足重に通い、挨拶をしたあと、宮女がしてもいいような食事の世話から、話し相手等あらゆる面で気配りを怠たらなかった。

その献身ぶりに舅の世祖や貞熹王后も嬉しく思いながらも方や、頑張る姿に内心不憫さを感じていたのでした。

良い母

幼くして父を亡くした息子たちを立派に育てることが役目と考え、大変厳しく躾けたようでした。

当時の人です。厳格で厳しいことは想像できます。

息子たちのちょっとしたの間違いでも見逃さす、「しきたり」に添って怒るといいスパルタ。

その厳しさに、成宗の祖母貞熹王后が見かねて、孫たちを擁護するほどでした。

祖父世祖と祖母貞熹王后は月山大君と乽山君(成宗)を「私たちの息子」と呼び抱きしめたそうです。

世祖は「孝行嫁」と呼びますが、

貞熹王后は彼女のことを「暴嬪」(ポッピン)と呼びました。

それだけ厳格だったのです。

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良い婦女

インス大妃が宮中の中で自分の役割として思いついたのは、本の編集です。

一番にあがったのは「内訓」の編集。

儒教倫理が基本の朝鮮では「女性の振る舞い」「女性たちのあるべき態度」といいのを大変重視しています。

朝鮮王朝時代、宮中に暮らす「嬪」たちの間で一番読まれたのが、「内訓」。

1章~7章で構成。

言葉と行動・父への考行、夫と妻、礼節、母の態度、親族との関係、清廉と質素等

その後も女性教育書のバイブルとなってまいます。

今で言うと後のベストセラーでしょうか。

難しく書かれているのを抜粋し、簡単に読みやすくしたのはインス大妃でした。

それ以外にも推奨されている「小学」「女教」「裂女」等も、重要なところ書き写し、新たな本にしたのです。

学問的には大変価値あることです。

目的は、学問や知識のためというより、宮中の法度を守ることがどれほど、大事かという「しきたり」の厳守に意味があったようです。

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インス大妃の「心の拠り所」

夫、懿敬世子を亡くしたあと、残された子供たちを厳しく育てたのは、父がないことで、後ろ指をさされるような人になって欲しくなかったからです。

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彼女は自分にも大変厳しかったようですが、それで心が休まるわけでも、満たされるわけではありません。

舅の世祖や熹王后は優しく接しはくれますが、彼女の孤独が埋まるわけではありません。

インス大妃は仏教に拠り所を見つけます。

「金剛経」を筆写するようになります。

そして今度は、仏典の刊行に力を注ぐのです。

懿敬世子亡くなったとき貞熹王后は息子の冥福を祈るため「正因寺」を建設します。

インス大妃も先代を庇護するというのもあり、お寺への多大な援助をしています。

朝鮮王朝は儒教が国教。

仏教を禁じていますが、建国前期・中期までは高麗時代の名残りもあって、寛大なとこがありました。

女性達の立場が低いこの時代、儒教の厳格な倫理観は、生活秩序は守れても、女たちの心の平和とは反比例するという矛盾があります。

一度お嫁にいけば、実家には戻れず、嫁いだ先で骨を埋めないといけない等、儒教

法度を厳しく守ってきたインス大妃も同じでした。

むしろ法度を守れば守るほど、孤独の溝はふかまったはずです。

インス大妃の最期と燕山君(ヨンサングン)の甲子士禍

1504年甲子士禍。

燕山君(ヨンサングン)が、生母を死に貶めた者への血みどろの復讐事件です。

はじまりは、燕山君(ヨンサングン)の生母 廃妃尹氏を宮中から追い出し最後は賜薬(毒薬)を下した王朝史の暗い歴史があったからでした。

詳しくは➡

【暴君のシェフ】モデル・燕山君の母はどんな人なの?史実をわかりやすく

この一件はインス大妃が深く関与しています。

真相を知った燕山君(ヨンサングン)は我を失い狂気しました。

母に冷たくあたった、貴人厳氏・鄭氏を自ら無惨に殺します。

二人の息子の王子も殺します。

その惨劇の最中、事件を知ったインス大妃が血の海と化した現場に駆け込みます。

インス大妃は周囲が止めるとも制しながら、身を挺し、燕山君の暴走を止めようとしました。

「主上おやめなさい!どうか気を落ち着かせください」

2人は口論になります。

その時、燕山君(ヨンサングン)が祖母インス大妃に、火山のような怒りをぶちまけながら頭突きしたのです。

インス大妃はその場で卒倒します。

インス大妃は二度と起き上がることができませんでした。

享年68歳です



まとめ

「内訓」「小学」の編集や仏典の刊行等、多くの人に読みやすく知識の普及提供したインス大妃の功労は立派です。

そんな女傑と呼ばれたインス大妃。

最後は孫の燕山君(ヨンサングン)の怒りが引き金となって人生の幕を閉じます。

夫である懿敬世子亡き後、悲しみを乗り越え、気丈に振る舞い、月山大君と乽山君(成宗)を育てたインス大妃でした。

当時の儒教的価値観の中では厳しく戒めることが宮中で生きるための術だったのでしょう。

儒教が背景にあるだけに「仏教の業だ」と一言では片づけられないのが複雑です。




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