ドラマ「王の顔」は実話に基づいてます。ソ・イングクの初時代劇でもありますね。
主演のソ・イングクは「王の顔」でKBS演技大賞新人賞を受賞しました。
主人公は朝鮮王朝第15代王 光海君(クァンヘグン)。
よくドラマに登場する名前ですが、何故これほどドラマ化されるのでしょうか、どんな実話があるのでしょうか・・
「王の顔」は実在する人物と実話。架空の人物と物語が混ざりっています。
物語は、主人公光海君の父・宣祖は観相学的に「王にふさわしくない顔」であるのに、反面、息子の光海君は「王の顔立ち」をしていること。息子の顔を針治療という名目で「福相」から「凶相」に変えようとまでしてしまう。
観想をテーマにしているのが、なんとも、ユニークな題材なのです。
光海君の父でもある宣祖は、自分にとてもコンプレックスを持っていた王でした。宣祖の「弱点」は本当です。
ドラマはそれらを逆手にとった形になっています。
光海君(クァンヘグン)の父・宣祖はどんな人?
先に、第14代王の宣祖のことに触れましょう。
宣祖は、先々代王 仁宗(1515年~1545年)の子でも先代王の明宗(1534年~1567年)の子供でもありません。
明宗は33歳の若さで急死。急遽新王立てなければならないとき、白羽の矢があたったのが、河城君(ハソングン・のちの宣祖)でした。
系図でいうと、中宗(1488年~1544年)の9男である徳興君(トククング)の三番目の息子でした。
明宗までの朝鮮王朝の王は先代の息子です。
正室、側室の子はあっても、「父親が王であった」という直系だったのです。
河城君から王朝は初めて、房系へと移行したのです。
何故、白羽の矢が向けられたのかは詳しくはわかりません。
生前「明宗がとても可愛がっていた」という話しがありますが
おそらく、私は、なんらかの政治的意図があったのかと思います・・・
そんなわけで、宣祖からしても予測していなかったのではないでしょうか、
ドラマの中では臣下達が
「河城君はいけません!」
と反対する場面は、以外に本当の事だった気がします。
その反対の理由が「顔」になっているのです。
「王者にふさわしくない顔」
王朝に代々受け継がれいる「龍顔秘書」
どのとうな顔が王者にふさわしいか、など詳細に記された秘密書が・・
ドラマでは宣祖が自分の成り立ちのコンプレックスを「顔」という形で表現しているとこがこのドラマのユニークなところです。
「王の顔」クァンヘグン実話
「王の顔」の中で事実は時代背景です。
宣祖(1552年~1608年)在位25年の1592年4月壬辰倭乱が起こります。
文禄の役です。豊臣秀吉率いる戦国の武士たちが攻めてきます。
200年もの間、大きな戦乱もなく平和を保っていた朝鮮国は窮地の陥いります。戦争と混乱、都(漢城)を落とされ、破綻寸前の朝廷は、急いで、世子(皇太子)を光海君に決め、「分朝」します。分朝とは、王権を二つに分けることを言います。
王である宣祖は、明国に近い義州(現在の北朝鮮国境近く)に避難。方や、光海君は戦闘地へと向かうことになったのです。
明の応戦によって、秀吉軍も漢城から撤退。一度、講和の動きがあったが、秀吉は明が要求を聞いていないことに激怒した。
1597年丁酉倭乱が開始した、(日本では慶長の役)
秀吉が没するまで戦闘は終わらなかった。その7年の間、光海君はひたすら世子として、戦い、民衆を鼓舞し続けた、国難時に、せっせと、側室を連れて、義州に逃げ王「国を捨てた王」宣祖とは違う方、民衆にそう印象付けたのです。
そう、光海君の人気は高くなり、逆に王である父・宣祖の人気は地に落ちたのでした。
人の感情からしたら、当たり前のことですね。
戦争で家族を失い、家も失い、それでも、なんとか、国を守ろうと、自ら義兵となって、命をかけて戦った民衆からしてみたら、光海君が希望の星だったはずです。また、儒教の考えかただと、民が王を捨てたのではなく「王が民を捨てた」となります。
民衆からみたら「父に捨てられた」も同然だったわけです。
それを肌で感じた父・宣祖はまたしても、息子の光海君に対して、嫉妬をするのでした。これは事実のようです。
現在でも韓国では宣祖が「逃げた」と辛口です。
ドラマ「王の顔」では、光海君が父・宣祖に向かってこう言います。
「顔がなんだっていうのですか?父王はすでに王なのに。誰もが敬う王なのに。父王が見なければいけないのは自分の顔ではない。民衆の顔です。」
「顔」がいいとか、悪いとか、そんなに重要なのか、それを突いてきます。
そうですね。私が思うに、確かに「顔」は大切です。人は生きながら顔が変わるのではないでしょうか、
生まれ持った「顔」に年齢を重ねうと、顔が変わる。その人なりが、顔に表れるものではないでしょうかね
光海君(クァンヘグン)でどんな人なの?
「王の顔」では、光海君が王になるまでの紆余曲折を描いてますが、この後の光海君の人生は波乱だらけです。
どれほど、波乱かというと、朝鮮王26代の中で、王を廃位された王だからです。廃位された王は、2人。そのうちの一人は10代王の燕山君(ヨンサングン)燕山君は暴君でした。もう一人が光海君です。同じく暴君という名目がつきました。
王は亡くなった後、その功績によって、「宗」「祖」とおくり名がつくのですが、燕山君も光海君も「君」のまま。つまり王子時代の名前のままです。
この2名が王であったが廃位されたので、つけようがありませんでした。
燕山君は今でいうと「サイコな王」でしたが、光海君には疑問視する声が
近代になって出てきています。
歴史学者の中で「一番検証したい人物ナンバーワン」が光海君。という、大変人気がありますね。
史実では光海君が、兄の臨海君(イメグン)、弟の永昌大君(ヨンチャンテグン)命を奪い、そして継母の仁穆大妃(イモクテビ)を幽閉するという罪を犯したことで、王位を失います。
でも外交面、政治面では近年高く評価さています。
わかりやすく3つ取り上げてみました。
1,人材登用~派閥を超えて優秀な人材を登用するという点
2,「大同法」の使用。~取引を米で行うことにした。また、土地の面積によって、税措置を行った点。
3,明だけでなく、後金(のちの清)との二つの均等外交を目指した点。です。
このあたり、今では当たり前で普通に見えるものですが、当時の朝鮮王朝時代では、斬新すぎて理解不能、2は、1年ももたず。3に関しては、明に対する「不忠」(儒教の忠義に反する)と考えられ、光海君自身が失脚する口実を与えた。
儒教社会です。2のように、大きく所有する者が税金を多く払い、持たないものは少なく払う、なんて考えが受け入れられるわけないですね・・
3も、壬辰倭乱のとき、援軍を送ってきうれた明に恩返しをしないなんてけしからん!となります。
しかし、戦後復興がまだ、半場で、民衆の生活も回ってない中の明への援軍は無茶だと光海君は考えました。同時に、後金のヌルハチは中華の国土に大きくその力と領土を拡大していました。その点をしっかり捉えていたのではないか、冷静な見方をしています。
光海君の時代とは、国内ばかりでなく、アジア全体の国際社会が揺らきながら動いていたのです。
私が思う光海君の功績は何かというと。
〇許浚(ホジュン・宮廷医官)の「東医宝鑑」(トンイポガン)という、朝鮮半島で採れる薬草を持ちえた医学書を世にだしたことです。
医療への貢献はもちろんのこと、ハングルで書かれてことで、たくさんの人々も目にとまり、治療にもなり、結果的に文字の普及にもつながったと私は考えます。文化面では近代の幕開けを作ったことです。
〇自らの命のある限り、生きたことです。済州島に島流しをされても、息子や嫁、妻が先立っても、蔑まされても、生きたことです。
誰も褒めないかもしれませんが、、、自分の本分が何か、光海君は知っていたとおもいます。惨めでもぶざまでも最後まで生きたことでその運命を全うしたことだと思うのです。
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