斉安大君の史実|「馬鹿な王子」は本当か?それとも生存のための処世術だったのか

斉安大君(チェアンテグン)とは朝鮮王朝の中でもっとも謎めいた王子です。

もっとも王位継承順位が1位だったにも関わらず「王になれなかった王子」と言う言葉と、一緒に呼ばれる「馬鹿な王子」と呼ばれています。

現在の韓国の歴史学者の中でも「愚か者だった」と「馬鹿に見せて生存する演技・処世術だった」2つの意見の分かれている興味深い実在人物です。

詳しく紹介したいと思います





斉安大君とは?王位継承1位だったが王になれなかった理由

ドラマ「暴君のシェフ」がヒットしたことで、今まで、「歴史の隅」に埋もれていた

斉安大君が韓国でも注目されるようになりました。

もっぱら話題は本当に「馬鹿」だったか「処世術」だったか否か、です

王位継承権1位だったにもかかわらず、王になれなかった斉安大君については、以下の記事で詳しく解説しています。

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斉安大君が、父王を亡くし、7歳で、世宗(4代王)の7番目の息子平原大君の養子になった後のお話しをしていきましょう。

斉安大君の私生活が異例とされた理由

1476年金守末の娘と婚姻します。

どうも斉安大君は女性には関心を示さない、夜伽に抵抗感を持っていたという話しがあるのです。

この逸話はずっと斉安大君にまとわりつく話のひとつです。

結局斉安大君は、金守末の娘は脚が悪いという理由で、離縁を申し立て、王である成宗に許可をもらうのです



朝鮮時代には異例だった「二度の離婚」

2番目の婚姻相手は朴氏。

しかし、朴氏が宮女と密通する「対食である」(同姓愛者)とこじつけて、母・安順王后に頼み無理やり離婚をします。

朴氏との離婚は内容が内容だけに、朝廷を騒がせる大きな事件にまで発展します。

結婚という私的なことではあるが儒教社会である、それも大君(王と、正妻の間に生まれた王子)の身です。

※「君」は側室から生まれた王子で格式が違う。

李鉄堅(イ・チョルギョン)という司憲府・大司憲(テサホン)は

上疏します

「斉安大君 李琄(イ・グォン)は、最初に金氏を妻としましたが、長からずして病気を理由にこれを棄て、 また朴氏を妻としましたが、これもまた長からずして不順(貞淑でないこと)を理由に棄てました。

その病の容態、あるいは不順の具体的な状況は詳しく知ることはできませんが、果たして(大君が妻を)棄てるにふさわしい妥当な理由があったのでしょうか。

わずか数年の間に二度も配偶者を変え、まるで碁石を置くように(軽々しく)振る舞うことは、 これは、千万の世に至るまで、彝倫(いりん:人間が守るべき普遍の道、特に夫婦の道)の重きが、李琄によって崩されてしまうことに他なりません。」

— 斉安大君の離縁に反対する司憲府大司憲 李鉄堅の上疏より

つまり、儒教社会の倫理に反する重大は出来事だったのです。



最初の妻・金氏と再婚という不可解な選択

ところが、脚が悪い、てんかん持ちで嫌だと言って離婚した金守末の娘とまた再婚したいと申し立てる異例な行動をします。

成宗(ソンジョン)は斉安大君を心配していました。

2度も離婚したのを憂い3人目の妻を探すようにします。

だが、斉安大君が最初の妻ともう一度再婚したいと言い張り、「再婚させてくれないと、一生独身ですごす」とだだをこねる始末。

成宗(ソンジョン)も「そなたが、自分から嫌で離婚したのではないか?」と疑問をぶつけるほどだった。

結局、成宗は斉安大君の我儘を受け入れることになります。

そのため何度も斉安大君の行動は朝廷で問題をされていました。

成宗が斉安大君に寛大だった本当の理由

成宗(ソンジョン)が斉安大君の我儘を聞いてあげたのは、本来ならば斉安大君が座る玉座を、自分が座ったという負い目を感じていたからです。

朝鮮実録によると斉安大君の母親の仁恵大妃、斉安大君の姉の顕粛公主のことに関しては、できるかぎり力になろうと真摯向き合っていたと書かれています。

この時も斉安大君を責める大臣を前に、

「まだ若いのだから過ちもあるであろう」とひたすら庇うのでした。



「愚か」と評された斉安大君の能力と振る舞い

漢文が読めなかった王族という事実

斉安対大君が王に事情を説明するため、ハングルで書いたものを、大臣が漢文に翻訳し書簡文を成宗に渡します。

成宗(ソンジョン)が読み、成宗が意見を申した言葉を側近が漢文で書きます。

それを斉安大君に読んでもいらうには更にハングルに翻訳する必要がありました

1つのやりとりで書簡文に書簡文を重ねるやり取りが続くという大変な作業だったのです。



 世間知らずと評されたエピソード

「米がなければクルトックを食べればいいじゃないか」

あるとき、屋敷の前に乞食がいたのを見た斉安大君は、

何故あのものたちは腹を空かせているのか?と下男に聞いたという

下男は「飢饉でお米もないのです」というと、

「米がないないならクルトック(蜂蜜餅のカスのこと)を食べればいいじゃないか」と言ったそうです。

このエピソードは斉安大君がいかに「世間に疎い」かを示唆しています。

同じ例えで言われるのが、中国の恵帝が飢餓に苦しむ民衆に「何故牛肉のお粥を食べないのか」

と言った話しやフランス革命で有名なマリーアントワネットが同じく、パンを求めベルサイユ宮殿まで行進した主婦群に向かって言った「パンがなければお菓子を食べればいい」と同じ意味。

世間の情勢に疎く、民衆の苦しさをまったくわからない。「純朴王子」

という意味を超え

「政治を行える能力がない」という印象も与えました。

中宗(11代王)に「犀角の帯」をねだる無邪気さ

当時、非常に珍重された最高級の「犀の角」の帯。

官僚が王である中宗に持って行ったところ、斉安大君はその帯を勝手に掴み

自分の腰に巻き付けました。

そして言うのです

「王様、これはなんと素敵な帯ですね!是非私にくださいませんか?」

あまりにも突然で、無謀な態度に周囲はおろおろし呆気にとらわれていたが、

中宗(チュンジョン)はそんな大叔父の無邪気な態度にまったく気分を害することもなく、

笑いなら許し帯を与えたといいます。



音楽と風流に浸った日常

斉安大君は風流に楽しみ日々を送っていたのも有名な話しです。

1日中、音楽と歌に浸る生活、

自ら作曲し演奏をする遊び三昧でした。

しかし、節奏の腕前は高く専門家に近かったと言います。

そのすべてが節奏(せっそう:リズムや節回し)に合致しており、たとえ自ら音律(おんりつ)に精通していると称する者でも、皆が屈服した。

「無能」ではなく政治的に「無害」な人物像を演出していると言われる所以です。

斉安大君は本当に「女性嫌い」だったのか

女性を遠ざけたとされる行動

斉安大君にはいくつも謎があります。

そのひとつは

「女性が近づくのを拒んだ」とされている点です。

1度離婚した、金氏と再婚したものの、ある時期、自分は「女性を近づけない」

宣言します。

本当に女性に興味がなかったのでしょうか、疑問を持つエピソードがあります。

※以下は当時の史官による記録であり、現代的価値観とは切り離して読む必要がある。

◎のぞき見

ある時、音楽を楽しく、妓生たちと散歩にでかけた、女性の一人がもよおして用を足そうとすると、

「身体をかがめて、女性が排尿する様子をみたあと、女性の陰部を指しまるで鶉の巣のようだね」と言ったという。



健康だった身体と精神的違和感

◎体は健康だった

こちらも「朝鮮実録」に書かれているエピソード

成宗(ソンジョン)は、子孫を絶やさない王室の役目としても、斉安大君に子どもを持ってほしい願っていた。

そして宮女たちに、誰が斉安の夜伽をするものはおらぬか、褒美をあげようと布告した。

一人の宮女が名乗りをあげたので、斉安大君の宅へと夜忍ばせたのだった。

斉安大君は眠りについていたので、宮女はそっと体に触れて密着したのだった、

斉安大君の体は健康だったようだ。

だが、突然目が覚めた斉安大君は、「汚い、汚い」と言い、水をもってくるように命じた。

宮女が水を持っていくと、斉安大君は体を洗いはじめたという。

このエピソードは斉安大君が身体的に健康であったこと、でも精神的に健康でなかったという意味で語られています

斉安大君が見せた「賢さ」と処世術

儒教の礼法だけは完璧だった理由

儒教の礼法や法典は大変複雑です。

儀式のしきたりや、手順・方法が細かく分かれていて、馴れているものさえもうっかり間違えます。

ましては、1つ、2つではない。

しかし、儒教の礼法に従わなければならない状況の時は言葉も態度もはっきりしていたそうです。

また、親孝行として知られ、宮に足を運ぶ際は、実母・安順王后の居所を訪ね

挨拶をし、常に気を配っていたといいます。



燕山君の要求をかわした静かな抵抗

斉安大君の屋敷の女官も、皆その影響を受けて音楽をたしなむようになりました。

ところが、暴君として知られる燕山君(ヨンサングン)は、その妓生たちを初め四人(その一人が張緑水)、その後も次々と宮中に連れて行った。

さらに女官を差し出すようしつこく要求しました。

しかし、斉安大君はこの要求に応じません。

燕山君(ヨンサングン)は怒って脅しをかけましたが、斉安大君はそれでも要求を無視つづけました。

燕山君の方も怒りはしたが、彼を罰することはできませんでした。

しかし、この一件以来、斉安大君は楽器を一切手放し、ひっそりと寂しく暮らすようになったそうです。

その後、時が過ぎ、

中宗(チュンジョン)が即位するやいなや、斉安大君はすぐに以前のように演奏を再開しました。

これを見た人々は、斉安大君が状況の変化に巧みに対処できる処世術に長けた人物だと評してます。

成宗・燕山君・中宗の三代の王に愛された斉安大君の人生

成宗への敬意と謙虚な姿勢

従弟であり、王である成宗(ソンジョン)からの直筆の手紙はいかに短いものであっても掛け軸や

屏風(びょうぶ)に仕立て、常に宝物を鑑賞するかのようにお礼の言葉を口にし、何度も広げて見たという。

そのような謙虚な態度だったので、時代が巡り、11代王中宗(チュンジョン)も、斉安大君を王族としての1級の待遇を崩さなかったのです。



中宗から受けた異例の厚遇

1519年、中宗(チュンジョン)も斉安大君が病気と聞けば、中宗王が自ら私邸に足を運び、お見舞いにいっています。

王が直接お見舞にいくこと自体極めて異例。

足の腫物に悩まされていた斉安大君に宮医を派遣させ、治療にあたらせた。

しかし効果は乏しく、危篤となった。

国王が中使を送ると、斉安大君はこう言ったという

「国王の恩恵は極めて重く、臣(しん)が何を言うことがありましょうか、」

1525年(中宗20年)満60歳でその生涯を閉じます。

訃報が伝わると、中宗(チュンジョン)はたいそう悲しんだと言います。

三日間朝廷の会議を中止し、都承旨(トスンジ)遣わし、賻儀を増やし、弔いの祭事を行うことを命じます。

更に、葬儀を監護・保護させ三年喪を終えるまで俸禄(ほうろく)を支給するよう命じます。

これらはすべて異例の恩数であり厚遇だったことを中宗実録では伝えています

初めて明かされた遺言に見る本心

「私の後を必ず大君を後嗣に迎えてほしい」

「自分に実子がいなかった」

自分の後継者を王の息子である「大君」の称号を持つ人物(つまり、王族の中でも格式の高い人物)を養子に迎えたい、という言葉を残します。

斉安大君の死後、家の財産と祭祀を誰が引き継ぐかが議論になった際、斉安大君の遺言として引用されました。

中宗(チュンジョン)は斉安大君の遺言通り、王族の中から後継者を選ぶ手続きを進めさせ、斉安大君と家の財産が国に没収されないようにしました。




斉安大君が生き延びることができた理由

直系の子を持たなかった意味

斉安大君は子女がいなかった。

儒教を重んじる朝鮮王朝では子孫を絶やさないことがとても大切です

王族ともなればなおさらで、次世代の後継を残すことは役目の一つですだが、斉安大君はいません。

同じく風流を楽しんだ、月山君の場合は、彼は無事でも息子が、謀反の罪で死罪になっています。

子孫がいない=「王座を狙わない」一族とみなされたことです

「遊び人」という印象戦略

エピソードであるように、音楽、絵画、歌や妓生遊びを通し

行動、発言等で政治に関心ないのを徹して貫いた

漢文が読めない=無学というのも含まれる

三代の王と良好な関係を築いた結果

成宗➡燕山君➡中宗と3人の王とも関係が良かった

特に、燕山君(ヨンサングン)の時代は何処でどんな地雷が落ちているかわからない一触即発な時代だったが、彼は甥である燕山君(ヨンサングン)ともそれなりに上手くやり遂げていた。

それは斉安大君が与えた印象と行いの結果だった



斉安大君の歴史的評価

諡号「霊孝(ヨンヒョ)」が示す評価

いずれにせよ、斉安大君のこのような振る舞いがあったために、亡くなった後に贈られた諡号は霊孝(ヨンヒョ)でした。

霊(ヨン)」は、「乱れているが、害を及ぼさなかったことを『霊』という(亂而不損曰靈)」という言葉があります

三国志に登場する漢の霊帝(れいてい)と同じ意味です

「霊」という文字自体が暗君(無能な君主)の代名詞として用いられる単語です。一言で言えば、「愚かだった」ということです。

「考」が付いたのは実母安順王后(仁恵大妃イネデビ、)に対して大変孝行息子であったから。

この2つをとって「霊考」とつけられました。


「愚か」か「演技」か──史書の分岐点

朝鮮実録には、

斉安大君(チェアンデグン)の卒記(死亡記事)には、史官が「睿宗(イェジョン)の息子で、性格が愚かであったため、男女関係の事を知らず、毎日、風流を楽しみ、飲食のもてなしを日課としていた」

と記してます

斉安大君が亡くなって、約100年後

「儒教学者である柳夢寅1559-1623(ユ・モンイン)はいう「正史」とは違う「野史」を書いた人物は、『於于野談』(オウヤダム)とう本の中でこう記しました。

「斉安大君は謀反に巻き込まれることを恐れ、馬鹿な振る舞いをし、子孫も設けなかった」と記している             ナムウィキ引用




まとめ|「馬鹿な王子」は本当に愚かだったのか

一人の人生をみて他人が「幸せだった」「不幸だった」等と軽々しく言えない。

斉安大君もその一人です。

「王になれなかった人」でした。

「愚かもの」と言われた人でもありました。

政権の中心だった、仁粋大妃、燕山君、成宗は、新しいその後の中宗時代をみることができなったのですが、その全ての主役が次々と表舞台から去ったあと、斉安大君は20年も新王(中宗)の時代を生きたことです。

これは大変興味深く、すごいことです

60年の人生は王族としては長命だったと言えるでしょう。

栄華崩落の時代にです。

今でも語り継がれる「本当に愚かだったのか、処世術だったか」

斉安大君が遺言は最後に見せた本心であり意地であり、意思でした。

「馬鹿」と呼ばれながら、王の息子として、心の奥では誇り高く生きた大君

彼の生き方は現在の我々に生きる術を問いかけているようです

 

斉安大君をモデルにしたドラマ『暴君のシェフ』については、作品解説記事で整理しています。

【暴君のシェフ】キャスト・全プロフィール付&あらすじ・見どころ|完全ガイド保存版

 




 

 

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